【経営と哲学】なぜ善い経営者は、善い哲学者であり続けているのか。

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どうも。お久しぶりです。

こんにちは。Kuramonです。

 

ここ最近、だいぶ更新が止まっていましたね…。

今月は卒業論文と学会論文がダブルで押し寄せてくる、まさに末法みたいな状況下にありました。

私も、健康と丁寧な暮らしを代償に、日々の狂ったスケジュールを乗り切るという制約と誓約を課した結果、忙しければ忙しいほど心地良さを感じる怪物と化してしまいました…。

 

明日からは、日替わりランチのように、水戸→ 東京 → 水戸 → 石岡(茨城) → 水戸 → 千葉 → 水戸 → 埼玉 → 千葉 → 水戸 と、頭の悪いムーブをかますことに、些かの快感と興奮を隠しきれません…。

(いや、論文を書く余裕は何処へ…?)

 

特に、8月にStIdeaを設立し、CSO(代表戦略責任者、やってることは事実上、経営者とほぼ同じ…。)になってから、特に慌ただしい日々を過ごしています…。

(最高!鮪気質な私にとっては、暇よりは遥かに楽しい!)

 

さて、近況報告はこのくらいにして、今日は現実逃避として、少しだけ真面目に私の想う「経営とは何か。」をテーマに色々と語ってみようと思います。

 

 

【経営学と哲学】 なぜ経営者は、哲学を学ぶのか…?

ここ最近、経営者の会に参加することが多く、たくさんの経営者の方に出会いながら、自分自身の人生について考え直すきっかけが多くありました…。

 

皆さんが知っている企業の代表や会長、社長、政治家の方などいろいろな人に出会い、沢山の学びを得る機会がありました。

 

いろいろな人の話を聞いている中で、ほとんどの成功している経営者が語っていたのは、「倫理」であり、「心理学」であり、「哲学」でした。言い換えれば、人生観と述べてもよいでしょう…。

 

そもそも、会社とは何のために存在しているのでしょうか。

私たちは何のために生きて、何をこの世に遺していくのか。

 

彼らは、常にそうした問いと真剣に向き合っていました…。

こんな哲学的な問答を大学で真面目にしていたら、やべー奴扱いされそうで嫌なのですが、私もこう見えて哲学や倫理が大好きで、高校で必修だった倫理の授業はなんだかんだ好きでした…。

 

さて、脱線しましたが、こうした哲学的な問答をなぜ経営者はするのでしょうか?

私は、「会社の在り方とは、常に心の在り方であり、人生観や社会の価値観にきわめて大きな影響力を持つから」ではないかと考えるようになりました。

 

そもそも、会社を創るときには、必ずVisionとMission、Valueというものを考えます。つまり、会社は何のために存在していて(Vision)、会社はどんな使命を果たさなければならなくて(Mission)、どんな価値尺度で意思決定をしていくのか(Value)ということです。

 

例えば、我々StIdeaの場合は、こんな感じです。

Mission: みんながいきいきと探究できる社会を創る
Vision:   自由な探究を阻害する常識や枠組みを壊す
Value:
・我々は、自己を律し、他者を尊重する。
・我々は、社会が抱える課題から目を背けず、柔軟にこれを解決する集団である。
・我々は、歴史に学び、歴史を刻む集団である。
・我々は、理想を語り、現実を創る、自由な変人集団である。

 

当然ですが、私はこの理念に共感しているからこそ、この会社を大きくしたいと躍起になっています。(テーマは世の中をひっくり返す会社…。常識とかに囚われない自由な発想を大事にしてくれるので、本当にここが居心地が良い…。)

 

企業におけるVisionやMission、Valueって、社会に対する“選択”を提示する行為なのではないかと思います。

 

政治でも同じことが言えるのですが、そもそも私たちの生きる社会においては、「正解」など存在しません。資本主義と共産主義でさえ、世界を真っ二つに分けてどちらが正しいかを争うレベルなのですから、どんな社会を目指したいか?なんて、1000人いたら1000人が違う考えを持っていて然るべきであり、誰かにとっての正解を選んだ日には、別の誰かにとっての不正解になるのです。

 

それが、“選択”というものです。

選択とは、多くの人が“選ぶ行為”と思っているようですが、実際にはそうではありません。人生という限られた制約の中で、できないこと・やらないことを“捨てる行為”なのだと思います。

 

会社の経営者は、己の人生観において、常に選択が求められているのです…。そして、その人生観の選択が組織全体の選択として全てに影響を与えます。

経営は、一瞬の判断が大きな結果に繋がるので、本当に油断ならないやつですし、私もある程度常時、プロとしてのスイッチをオンにしておこうと心がけています…。

 

かつての会社は利益を沢山だし、“効率的に稼ぐ”ことが美徳とされました。お金を稼げば稼ぐほどいい企業と評価されました。経営者は、“お金持ちになりたい”という強い野心の下、効率的に利益を出そうと努めました。

一方で、現在はどうでしょうか?CSR(企業の社会的責任)や、社会課題、ソーシャルビジネスなどが企業においても重要視され、多くの人がいかに“社会を善くできるか”を考えるようになりました。

 

対義的な二項対立ではないものの、両者はまるで政治の右と左のごとく、異なる価値観で、どちらも一つの選択肢として現代に残り続けています。(そりゃ、政治は荒れるわな…。)

 

「社会のどんな未来を望むのか」という経営者の心の在り方こそが、企業や社会全体に対して、意識的かつ無意識的に影響を及ぼす… だからこそ、経営者はつねに心の在り様を求めているのかもしれません…。

 

 

【容認のための余裕】経営者とは、心の器を大きくする仕事である。

さて、昨今では“多様性”という言葉ホットワードです。

私は、この言葉が「マイノリティがマジョリティを否定する形で使われている」ことに違和感を覚えているのですが…そんな話はまたいつか…。

 

そもそも私たちは皆、考え方も価値観も違う存在です。完全に同じ人など存在しませんし、もともと多様な存在です。

 

価値観が違う人と出会った時、私たちには2つの選択肢があります。

一つ目は、「価値観を受容する」ことです。相手の考え方や価値観を理解し、受け入れます。こうした場合には、人間関係は割とうまくいきます。

 

二つ目は、「価値観を是正または排斥する」ことです。要は、自分の価値観に無理矢理合わせようとしたり、違う価値観の人を攻撃するパターンです。この場合、高確率で恨みや反感を買うか、争いに繋がります…。

 

そして、多様な価値観を受け入れられるかどうかは、「心の余裕」が直結します。

お金持ちの人とかすごく寛容だったりする例とか想像するとわかりやすいかも…?

 

心の器を大きくしないと、異なる価値観を受け入れることができないのです…。

 

脱線しますが、最近になって日本をはじめとした先進国などで“多様性”という言葉がホットになった背景に、私は「社会の豊かさ」があるのではないかなと思っています。

 

つまり、今まで違う価値観として弾圧・排斥されてきた人たちの価値観さえも社会が取り込みうる余力が生まれたのです。

これは、社会学的に日本の軍隊的な教育を俯瞰した後に、近年の教育分野の動向をさまざまな立場から観測していると、非常多く思うことがあるでしょう。

 

さて、「経営者の仕事は何か。」という問いについて、私は経営者とは「志を語り合いながら、志に共感する仲間を見つける、すなわち人と会う仕事」だと思っています。

 

自分一人では達成できない大きな人生観を達成するために、仲間を集め、協力し、実現していく…。これが多分、経営者ってやつなんだと思います。ポケモンでいうサトシの旅みたいなもんです。

 

最近ではリーダーシップ教育なるものが流行り、「リーダーの素質とは何か?」など、多くのことが語られてますが、おそらく答えは割と明確で、「確固たる人生観を持ち、己の志を他者に熱く語ることができるか」なのではないかと思っています。

 

志を語れば語るほど、価値観の違う人に出会います。彼らは、自己に対して拒絶反応を示したり、時として攻撃してきたりします。経営者は、そうした自分とは違う価値観の人でさえも愛し、受け入れられる度量が求められているのだな…と感じるのです。

 

 

【何のために生きるのか】誰のために何を遺すのか。

私たちは、果たして何のために生きているのでしょうか…。

こんな問答を延々としていたら、メンヘラか何かと勘違いされてしまいそうですが、何百年も哲学者たちが真面目に考えてきた問いです。

 

私たちは何のために仕事をし、何のために生きるのか。

 

この問いと真剣に向き合い続けると、過去の哲学者たちが何を考えていたのか、その琴線に触れることができるような気がして、えも言えぬ心地よさを感じます。

 

 

「そんなに忙しそうな生活を送って、きみは何がしたいのだい?」

「君は、一体何を目指して、そんなに忙しそうな生活を送っているのだい…?」

 

頻繁に私が問われることです。正直に言うと、自分自身でもよくわかっていません…。

だって、中高のころの私をご存知の方はご理解いただけると思うのですが、私は基本的にサボることの方が好きだし、家でゴロゴロしている性格で、めっちゃ怠惰です。

 

何に駆られて、こんなに生き急いでいるのか…。正直よくわかりません…。

 

今も卒業論文という目先のモノに追われて走ってはいますが、正直「ソツギョウロンブン」なるものを書くことに何の価値があるのかさえも分かりません…。

 

大学を卒業するため → なんで卒業しないといけないの?

良い会社に就職したいから → なんでそんなに就職しないといけないの?

お金を稼がないといけないから → 別にいい会社じゃなくても稼げるくない?

 

多分、私たちは極めて狭い視野・狭い価値観・狭い常識にものすごく囚われて生きているんだと思います。そして、そうした縛られた人生がとても“楽”だと感じているんだと思います。サルトルの「自由の刑」とは本当によく言ったものです。

 

人生とは、そういう意味で、つねに自分の視野や価値観・常識という手札から選択を繰り返していく所業に過ぎないのだと思います…。

経営者は、その手札を多くの人に配り、道筋を示す存在であると同時に、手札を増やし続けなければならないのです。

 

【自由の刑】大海を知った蛙は時として自己を見失う。

それは時として、狭い視野を広げたことで、自己の軸を見失うこともあります…。井の中の蛙が大海を知ってしまった日、井の中の蛙は、井の中での自己のアイデンティティを亡失するのです…。

 

今の私は、そんな井の中の蛙なのかもしれません…。誰のために生きるのか、この世界に何を遺したいのか、自分の確固たる志は何か…、そうした自己の存在意義・アイデンティティを見失った海月のような存在として、大海の中を漂っているだけなのかもしれません…。

 

では、私をここまで突き動かしているものは何か。

それはおそらく、「何者かになろうとしている蛙」と「漠然と抱く大海への期待」なのだと思います。

中学・高校の同期は、私には想像もつかないスピードで成長を続け、文字通り日本を牽引するトップリーダーになろうとしています…。取るのが難しい資格を取ったり、社会的に権威性が高い企業や組織に加入したり…。

 

そんな姿を見ているうちに、「なんか自分も頑張らないと…。何者かにならないと…。」と無性に駆り立てられているのかもしれません。

それは、羨望と同時に、焦りに近い感情であるかもしれません。

 

人生には正解なんてないし、自己の人生観に基づいて捨てるという選択を繰り返さなければなりません…。それは、無数に存在する自分のあるべき姿、言うなれば並行世界を常に否定し続けるような感覚です。

 

例えば、「医者にならない」という選択は、医者になった自己の世界線を否定することと同義なのです。

 

そういう意味で、今の私は「社会に対して、何かしら意味のあることを成し遂げたい」という究極の自己満足を求めているのかもしれません…。

そのために、何か得られるかもしれない…と足掻き、求め続けているのでしょう。

 

多分、経営者って本質的にぶれない自己の軸を持ちつつ、そんなことを悩み続けているのでしょう…。知らんけど。

 

【逆説的思考】意味のある人生ではなく、人生を意味付けする

 

最近、ふと思うことがあります。

それは、「意味のある人生って何か。」ということです。

 

同年代の人たちを見ていて思うのは、「何らかの意味のある人生を送らなければならない」というステレオタイプに縛られ過ぎているのではないかと…。

 

これは、本質的には恐らく逆で、意味のある人生に向かっていくのではなく、過ごしてきた時間の積み重ねをどのように解釈するかによって、人生の意味が決定づけられるのではないか…と。

 

私は、短い人生なりにもいろんな経験をしてきました。

千葉高で本質的な学問を学んだり、ゲームでランカーをしてみたり、ブログでお金を稼いだり、本を書いたり、会社を経営したり、政治家を応援してみたり、自分よりも若い人たちに勉強などを教えたり…。

 

それらすべてが、人生のどこかで線となり、後から振り返って「無駄ではなかった」と思えるのです。

いや厳密には、無駄ではなかったと思えるくらい、実は今が過去の積み重ね、すなわち延長線上に居るのです…。常に行動し続けようという源泉の思想は、多分ここにあります。

 

私は、ブログを書くくらいですから、「言葉」というものと深く向きあう機会が多いです。(授業でも結構そんな話をよくします。)

 

「認識が先か、言葉が先か」という認知言語学の話にも繋がりますが、結局のところ自分が積み重ねてきた時間のどのシーンを切り取り、ラベリングをするのかが重要です。

そして、過去の瞬間のほとんどはラベリングされずに消え去ってしまう…

 

だったら、「一瞬でも多くラベリングされる時間を増やしたい」というのが、私の思想の原点なのかもしれません…。

 

経営者やリーダーは、自分の確固たる志を信じ続けなければなりません。

それが、その瞬間に正しいかどうかなんてわかりません…が、あとになって振り返ってみたとき(あるいは、死後誰かに振りかえられた時に)に、何らかの価値のある意味付けや、その志に共感する仲間が居てくれる…ということが、経営者の語る「この世に何を遺すのか」の意味なんじゃないかなって思うのです…。

 

【おわりに】もう少し頑張ります…。

そんな感じで、今日も哲学を少し語ってみました。

いろいろと思うことがある人も多いでしょう…。センシティブな話ではあるし…。

あくまでも、私の視野と価値観で感じたことであり、そんな発想もあるんだな程度に捉えてください。

 

最近の私は、StIdeaという居場所に結構楽しませてもらっているので、今はこの組織をどうやって大きくするか、より面白く盛り上げられるのかを考え、全力を尽くしていこうと思います…。

 

てか、卒論は? …wasuretemasennyo。ちゃんと書こうと思います。

 

ということで、本日も駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

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