皆さん、こんにちは(こんばんは)。
年末はいかがお過ごしでしょうか。
早いもので2023年もあっという間に最終日、今年は本当に早い一年でした。
例年であれば、SNS上に一年の振り返り的な内容を投稿するのですが、実は私はこのサイトのサーバーとドメインを約5年間、所有し続けています。
(昔は色々と記事を書いていた時期もあったのですが、今は初期設定です)
そこで、「折角なら今年はこのサイトに!」と思った次第です。
そうです。「みんなもすなる1年の振り返りノートといふものを、私もしてみむとてするなり」ってことです。
私の駄文に最後までお付き合いいただけますと幸いです。
“がむしゃら”に目の前のことをこなし続けた春編
今年の1月~3月は、本当に色々なことがありました。
まず、第七回社会課題解決セミナーの実行委員長として、水戸市長に二度目の表敬訪問(厳密には、三度目なのですが…。)をしたり、水戸市内中の小中学校に足を運んで、チラシを配布したりと、かなりドタバタした日々でした。
(余談ですが、非営利目的かつ教育的な内容であれば、教育委員会の後援を得ることができ、そうすれば市内中の全ての小学校・中学校に宣伝ができるんですね。ここまですんなりと配布依頼を受け入れてもらえるのは意外でした…。事実上の営業周り、結構緊張したんですよ…。)
今回のテーマは「お金の問題を考え方で解決する」という内容で、実業家のホリエモンさんとグロービスの堀義人さん、経営実践研究会の藤岡会長をお招きしたこのセミナーの準備に奔走していました。
結果としては、400人くらい?の方が来てくださり、今でも「あの時セミナーに来てくださったんですね!」的な話をよくすることがあります。
そんなセミナーの裏話なのですが、私の中でテーマにしていたことがあって、それは「全ての人が自律して動くことができる組織づくりは可能なのか?」ということでした。
目的を共有した仲間であれば、正確なマニュアルや正しいとされるルールなんかがなくても、一人一人が自分で行動を考え、自ら解決策を見出すことができるのではないか?と思ったわけです。
そんな組織を巷ではDAO(Decentralized Autonomous Organization)なんて呼ぶらしいです。
でも、よくよく考えてみればこの組織、私の母校である県千葉と全く同じなんですよね。ルールや規則なんかが無くてもひとりひとりが自律し、考えて行動ができる存在であれば、自然とそこに“居心地のいい秩序”が生まれるのではないか?と。
ですが、残念ながらこれは思ったよりもうまくいかなかったです。(語ると長くなりそうなので、色々と割愛しますが…。)
この経験から学んだことは2つ。
組織の中心から離れれば離れるほど、当然ですが、目的やビジョンの共有は困難になります。“なんとなく“よくわからないまま目の前の仕事をこなそうとします。当たり前ですね。
そうした状況にある人達が求めていることは「具体的な指示」です。彼らは何をすればいいのかを考えてくれるわけではないですから、「具体的にこう」と明記しないと何も動けないわけです。
(しかも、これに個人の裁量権や各々の利害の問題が絡むと、組織運営はもっと面倒くさくなるんだなぁって…。)
そんなこんなで、組織末端への指示は、「こうしろ、ああしろ」と具体的なものであるべきだと思ったわけです。
でも、それと同時に私は思いました。「それなら機械でいいじゃん。」と。
具体的な指示を明確にして決められた(与えられた)仕事を粛々とこなすだけであれば、ロボットでいい。
人間は考えることが最大の特徴なのに、それを放棄してマニュアル通りにやるべきことをこなすだけなんて、ロボット同然であると。もちろん楽ですよ?なにも考えなくていいし。
これは、私がマニュアルの存在そのものを否定しているわけではありません。考える自己という存在は全てにおいて「均一化された」基礎や常識の上に積みあがるものですから…。
ですが、やはり人間は、目的や基礎をきちんと踏まえたうえで、「こうでもない、ああでもない」と色々なことを考えながら、試行錯誤を繰り返すことにその存在意義があるのだと再確認ができたわけです。
まあ、そんなことを考え、悶々とした日々を過ごしたわけです。
このような貴重な機会を下さった中井川さんには、本当に感謝しかありません…。
また、私自身も起業家として色々動いていた日々でした。
実は、2022年から法人設立のために色々と動いており、2月に法人を設立しました。
司法書士と法人登記のための手続きの打ち合わせをしたり、会社の定款をなんども書き直したり、まあまあ忙しない日々を過ごしていたわけです。
当然、先のことなんて考える余裕もなければ、目の前にある物事をこなすのが精一杯で本当に毎日地獄みたいな日々を送っていたわけです。
(まあ、そんなこと言いつつ、ドリーム・パス事業(高校生の夢実現に向けた茨城県主催の支援事業)をコーチとして参加したり、キングコングの西野さんとZoomでお話する機会をいただいたり、色々と別のコトをする余裕があったのは事実ですが…。)
今振り返っても、この3か月間は、本当に“がむしゃら”な日々だったなと今でも思います。
病みがちになってタブラ・ラサ、コギト・エルゴ・スムな夏編
さて、セミナーも無事に終わり、色々なことが一旦落ち着いた頃(本当は全く落ち着いていない)のですが、少し色々とあってメンタルが完全に崩壊、全てのことに対してまともに向き合えない時期が到来しました。
当時の私を詳しく知る人には、本当にいろいろな方面でご心配とご迷惑をおかけしたと思っております。マジで申し訳なかったです…。
原因はなんとなく明らかではあるのですが、もう本当にすべてが嫌になり、今まで行っていたことや自分自身の思考を文字通り白紙(タブラ・ラサ)にしたわけです。
私自身、メンタルはかなり強い方だと思っていて、大丈夫とか思っていたのですが、何も大丈夫ではなかったですね。詳しくは語れませんが、自分の会社も含めてすべての仕事から一度失踪したわけです…。(なんか今話題のDJ社長みたいな状況に私もなった、厳密には今もなっているわけです。)
心療内科にも診断をしてもらって、無事「適応障害」と認定(今はどうか知らないけど)。「このままだと本当に鬱状態になって、危なかったよw」と笑われたわけです。(笑いごとではないけどね。)
文字通り、メンヘラの方々がよく口にする「もぉ、まぢむり…。」状態ですね。
とはいえ、人一倍プライドと理性による制御が高く、周りの目を以上に気にする性格であった私は、なるべく何事もない日常(大学とかバイトとか)をこなしているような振る舞いをしていました。が、まあ…透けていましたよねw
この期間、本当にいろいろなことを考えて、考えて、考えまくったわけです。鶏みたいなほとんどゼロに近い脳みそをフルで使いまくって。
何を考えていたのかというと、「なんのために自分は存在しているのか」「自分は何者であるのか」「今、この状況を捨てたときに、一体何ができるのか」「自分が他者に出来ることは何か」…。思春期の高校生かよって思うかもしれないですが、真面目に考えていました。大真面目に。
考えに考え抜いた挙句、たどり着いた答えは、「『なんのために自分は存在しているのか』を真剣に考えている自己は、常に存在する」ということでした。
この考え方は、後付けの理論ではありますが、まさにデカルトが唱えた「コギト・エルゴ・スム(Cogito-Ergo-Sum)(我思う、故に我あり)」という状況だったわけです。
やはり哲学は、素晴らしく、この考え方をするとすごく楽になったわけです。
なんでかって?
結局、さっきも言いましたが、考えている間というのは「人間らしく在れる」瞬間であり、自分がどれだけ辛く、精神的に立ち直れないような状況であったとしても、考えている自己の存在そのものは否定することができないのです。
まあ詰まるところ、どれだけ「自分は生きていていいのか?」とか考えても、それを考えている自分は既に生きてしまっているわけで、だったらただ目の前のことにひたすらに向き合い、自分が楽しいと思える方向に走り続けるしかないという結論に至ったのです。
哲学って素晴らしい…!
余談ですが、これをきっかけに私は「鬱」とか「適応障害」とかの人により一層親切な気持ちで向き合えるようになった気がします。
やっぱり自分が実際になってみると共感が湧きますし、彼らがどんな気持ちで何を求めているのかが見えてくるようになるんです。
自戒と自律と出会いの秋編
そんなわけで、私は、様々なことを学びながら己の無能さを常に自戒する日々が続いていたのですが、皆様のおかげでようやく立ち直ることができたわけです。
これまで通りに普通に社会復帰をしても良かったのですが、それでは何度も同じループを繰り返してしまう気がしました。(まあ、詳しいことは言えませんが、その確信があったわけです。)
折角全てを白紙にしたのであれば、白紙のまま再度新しい色を塗っていくのはどうか、そこで新しい視野や知見を得られれば、また成長できるきっかけになるのではないかと考えたわけです。
そこで、今年の秋からは本当にいろんなことに挑戦をしてきました。
ドリパスで新しいチームをサポートしたり、県庁とリクルートと手を組んで、地域魅力発信の事業のメンバーとして加わらせてもらったり、インターナショナルスクールで英文法を教えるコーチになってみたり、NPOで長期のインターンをしてみたり、文字通り色々なことに挑戦をし始めました。
自分から一歩、踏み込んで関わってみると、そこで新たな人と出会い、新たな価値観が芽生えていきます。
本当にいろんな人と出会い、そこから学ぶことができるのは楽しいことだなと改めて思ったわけです。
雑談ですが、うつ状態の人が海外にいったらその人の病気が治るという話をどこかで耳にしたことがありますが、あれ多分、事実です。
考え、悩む自己は死なない限り、そう簡単に消すことができない。彼らが悩み、疲弊するのは必ず自分を取り巻く環境だな、と。
家族や友人、仕事仲間といった人間関係、学校や職場、家といった場所、それら一つ一つが人を悩ませるわけです。
本当にしんどいと感じたときに、自分でそれらすべてを切り落としてみるというのは、意外と悪い策ではないのかもしれないですね。
人間関係にリセット癖がある人は、そういう心地よさがもつある種の中毒症状になっているのかもしれません。
このシーズンは、柔道部の活動も積極的に頑張りましたね。中学時代からほとんど勝つことがなかったこの私が、いつの間にか試合でそれなりに勝つ経験もできたわけで、長く続けて良かったなぁと切実に痛感した日々でもありました。
重厚な教養主義に立ち返ろうとした冬編
さて、そんなこんなで色々と慌ただしく動いていた冬ですが、実はこの冬から、中学・高校の友人とも新しい企画を始めました。(まだ、発表はできないですが…。)
久々に会って話す仲間に感じたことは、“県千葉が持つ居心地の良さ”です。彼らは、それぞれが自律しており、明確な軸を持っています。話していてどこか懐かしさと同時に心地良さがあります。
私が大好きなこの県千葉のノリとは一体どこから来るのか?
明確な答えはないですが、私は「懐疑的精神によって、重厚な教養を身につけ、自分の軸を持った自律した人間だから」なのではないかなと思っています。
一定の教養や経験のある人と話をすること程楽しいことはありません。
自分自身の価値観を拡げてくれると同時に、自分自身を改めて見つめ直すきっかけにもなるからです。
私自身もそんな彼らと話をする中で、もっと頑張らないとなぁ…と漠然と思うとともに、色々なことをもっと勉強してみたくなったのです。
実は、学生時代にあまり興味がなかったことであったとしても、いま、改めて見てみると「そんなつながりがあったのか!そういう事だったのか!」と気づくことが、たくさんあって、そうした知的好奇心を満たしてくれる学びというのが、最高に楽しいのです。
かつて「いつやるの?今でしょ!」で有名な東進ハイスクールの林修先生が、「勉強は最高の贅沢である」とおっしゃっていましたが、改めて考えると、本当にそうだったんだなと今になって感じます。
高校時代に「重厚な教養主義www」とネタにしていた私が、いま、改めて重厚な教養主義の魅力に取りつかれてしまっているのです。
2024年と今後の抱負(ゆるく)
さて、年末年始にここまでくだらない駄文にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
ここで、来年の抱負を述べようと思うのですが、実はもうすでに、「やりたいこと」「やらないといけないこと」がたくさんあってぐちゃぐちゃになりつつあります。
例えば、就活。ここまでの話を読んでくださった勘の良い方はお気づきかもしれませんが、私はほとんど何も就活について動くことができていません。(まずいね。ハハッ)
地元に密着して様々な活動をしてきたからこそ、改めてマクロな視点から世界を俯瞰的に捉えるという事がやってみたくなり、最近は東京の大手の会社に就職したいという気持ちが強くなってきました。
そのために、自分からどんどん動かないといけないことも沢山あります。そういうことをできたらよいですね。
やってみたいことは本当に沢山あります。現在の私は、初めて言葉を覚えた3歳児のごとく、色々なことに興味を持って手を出しています。
世界を広く見るという意味では留学も行ってみたいし、動画の編集やプログラミングについてももっと学びたいし、法律や会計についてももっと学んでみたいし…。
学生時代には全く勉強をしてこなかった私が、勉強意欲にあふれてきているのです。(ただの躁鬱の躁なのかも…。)
そういう意味では、私個人の目標としては、選択と集中なのかもしれません。
さて、そんな話は個人的な抱負なので、どうでも良いのです。私は、よく多くの人に「お前は結局何になりたいのか?」と聞かれることがあります。
確かに、それもそのはずです。こんな風にあちこちに手を出しながら、いろんなところに首を突っ込んでいるのですから…。
なので、年の瀬にインターネットの隅っこで、今の私がどのようなビジョンを描いていて、今後何をしていきたいのかという事について少しだけお話ししておきたいと思います。
ここ最近の私は明確に2つの軸を持って動いています。それは、「教育」と「メディア」です。
私はこれらを組み合わせて、新しい人材育成、コミュニティ形成を行いたいと考えています。
私が教育業界に対してある課題を抱いています。それは、学校で教えられた知識を覚えることに必死になって、「知識を覚えること=勉強」と勘違いしてしまっている人が多いという事です。
世の中のあらゆる知識や教訓は「考え方」であり、道具です。
数学の公式を覚えることが勉強の目的なのではなく、数学の公式をどう使うのかという事を知ることが大切です。
既存の教育では、「考え方を道具として使う」という事は中々養うことができません。
実際に、私は子供たちに勉強を教える際、「何が知識であるか」という事よりも、「どのような経緯でその知識が生まれ、その知識をどのように活用できるのか」という本質の部分を徹底的に話します。
不思議なことに、こういう話を沢山した方が、生徒の成績は圧倒的に伸びます。彼らは考え方を知識として脳みそに収納するのではなく、考え方(道具)として自分の意味ネットワークに知識が組みこまれるからです。
私的にはその方が、成績が伸びるというのは当たり前なのですが。そういう超究極の本質的な学習機会を提供してみたいのです。
私は、県千葉の教育で最も良かったなと感じている点はそこにあります。知識を知識として暗記して終わらせるのではなく、知識の本質を理解することで、教養として自分の人生に活かせる形でインプットする…。まさしく、母校の重厚な教養主義という考え方に基づくものです。
勉強は、勉強をする前に、勉強の仕方を勉強する必要があるのです。
そうした本当の学びをできる機会を1人でも多くの人に届けられればいいなと思うわけです…。
そういうコミュニティって県千葉にはあったんです。目的を共有し、自分たちが自由にやりたいことをやる。しかも、それを高いレベルで。
そして、私はそのツールとして新しいメディアを活用して実現をしたいと思っています。メタバースをテーマに卒業論文を書こうとしているのはそのためです。
県千葉の和やかな雰囲気と独特のノリを楽しむことができつつ、結果を出すことができる圧倒的な実力集団を集めたコミュニティを、私は再現し創ってみたいと思うのです。
メディアが発展すればするほど、最後に価値を持つのは「人との繋がり」です。しかも、そのコミュニティにおいて必須の要件となるのは、「ひとりひとりが自律していること」です。考え方を道具として活用し、ひとりひとりが自分の軸をもった高いレベルの集団は、その人の財産そのものになりえるのです。
早い話、県千葉のようなコミュニティを創りたいんです。
来年は、メディアを学んできた私が思う10年先の未来に活きることへ本気でベットする一年にできればいいと思います。
就活と並行してこの構想を実現するためには、本当に忙しい日々が続くと思いますが、来年は365日、何かしらの活動をする(残念ながら、今年はこの目標、数日だけ休んでしまって、達成できなかったんですよ…。)
そんな一年にできれば良いと思います。
このサイトももう少し有効な使い方を模索して、今年は活かせればよいですね。
では、私のくだらない駄文に最後までお付き合いいただきました。
今年一年、私と関わってくださった全ての皆様に対し、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
そして皆様の新しい1年が素晴らしいものになることを心より祈念しております。
良い年をお迎えください。
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コメント
投稿から一月経過しておりますが、全文拝読しました。
一点気になったのですが、『コギト・エルゴ・スム』は、ヘーゲルではなくデカルトではないでしょうか?
以下は感想となります。
非常に多くのことに全力で取り組んでおり、同い年ながら感銘を受けました。
Kuramonさんほどのバイタリティはない私ですが、「今年は何か挑戦しよう!」と思えるような、素敵な文章でした。
今後ともお体に気をつけて、頑張ってください。
陰ながら応援しております。
感想戴きありがとうございます。調べたら、デカルトでしたね…。私もうる覚えの知識なので、所々ミスはあります…。お恥ずかしい限りです。お互い、良い一年になると良いですね。