イドラに惑わされた熱狂的なマイノリティによる排他的な衆愚政治について

Kuramon

どうも。先日、広告審査を出したところ、「記事数が足りない」と跳ね返されたくらもんです。

 

このブログは、私の日々の思考を気ままに実体化させているのですが、少しだけ定期更新を頑張ろうかな…と思います。

 

 

さて、この前の7月7日、東京都知事選が無事、終わったわけですが…。

うーん…今回の選挙はいろいろと考えさせられることが多かったですね。

 

勿論、来年から「東京で働く」という交流人口からより密接的な関係人口に私のステータスも変わるというのもそうですが、日本の中核である東京の未来を考えることは、ひいては日本の未来を考えることに繋がっていくわけです…。

 

今日は、そこで思ったコトを適当に羅列してみようかな…と思います。

 

相も変わらずの駄文でございます。興味のある方のみ、お付き合いください。

 

【劇場型政治によるポピュリズム】

ここ最近の日本は、「劇場型政治」が非常に目立っているのが、第一印象です。

 

「劇場型の政治」とは、単純明快なわかりやすいキャッチフレーズのもと、メディアを通じて大衆の支持を訴えるポピュリズム的な政治手法のことを指します。

 

要は、「○○は敵!私は庶民の味方!」というわかりやすい構図で国民の関心を惹きつけるやり方のことで、ぶっ壊したがっている政党とか、政治放送で一見すると“ふざけた“ことをしている人たちを想像していただけるとわかりやすいのではないかと思います。

 

彼らの目的は、政治をエンタメにすることで、「選挙や政治に対する関心を高めること」です。だから、投票率が上がったという観点では、一定の成果を収めていると言えるのではないでしょうか…。

 

ここで、注目しておきたいことは、「なぜ、彼らは政治家としてのキャリアの可能性を捨ててまで、そのようなエンタメ化に走るのか。」ということです。

 

これは、彼らが明言している通り、「有力候補者の組織票が強く、ひっくり返すことができないことに対する既存の民主社会構造に対する絶望感」があると言えます。

 

つまり、「真面目にやってもどうせ勝てない」「初めから勝負は決まっている」という意識が、劇場型政治を興隆させる重要なファクターとなっているのでしょう…。

 

【そもそも投票率は、政治意識だけが要因ではない】

このような劇場型の政治をしたがる人にとって、KPIとなるのは、「投票率」です。

 

投票率を左右する要因として、政治に関する無関心や政治に対する消極的な期待などは、たしかに大きな影響を及ぼしていることは間違いありません。

 

ただ、同時に「応援したい政治家がいない」という要素だけでは、投票率は上がらないという点は、検討しておきたいです。

 

例えば、投票所が遠いから、忙しいから、天気が悪いから…など、さまざまな要因があります。

 

とはいえ、選挙に興味・関心を高めるという意味では、劇場型の政治家の考え方や行動指針には、非常に興味深いところがあります。(発信内容には全く共感しないけど…。)

 

【あの政治家も劇場型の政治家である】

今回の東京都知事選、ある政治家が若者の間で非常に根強い人気を獲得して、善戦していたじゃないですか。(具体名までは出しませんが…。)

 

彼もまた、一つの劇場型の政治家であるということはしっかりと考えておかなければいけないと思うのです。

 

というのも、YouTubeなどのSNSメディア上で、「既存の政治屋」を一層するという明確な敵対関係を示すことで、共感する仲間を増やしていくという手法は、劇場型の政治家以外のなにものでもありません。

 

「いや、彼は違う…!」という方がいるかもしれないですが、それは彼の主張内容や言動によってパッケージ化されているだけのように感じます…。そういう意味では、確かに違うのかもしれません。

 

いずれにせよ、私はこうしたSNSやマスメディアを支配した人が勝つという選挙戦の構造は、劇場でのポピュリズムの興隆を感じざるを得ないのです…。

 

これは言い換えると、「何を伝えているのか」よりも「どんな伝え方をしているのか」というパフォーマンスに対して、より注目が集まってしまっている状況があるのは事実なのかなと感じます…。

(別に、その人を否定するつもりは1ミリたりともないので、勘違いしないように。)

 

【イドラから解放された衆愚政治は、新たなイドラに束縛される】

「そもそもイドラとは何か?」という人が多いと思うので、簡単にご紹介します。

イドラとは、17世紀にフランシス・ベーコンという人が人間の偏見を帰納法的に説いたものです。

 

ベーコンは、知識とは、実験や観察などの経験から得られた知見を体系的に整理することで発見されるものであるという帰納法を提唱しましたが、そこには4つの誤解・先入観が入ると語っています。

 

具体的には、

種族のイドラ… 人間の感覚的な錯覚のような本性に基づく偏見
洞窟のイドラ… 個人の教育や習慣、経験に基づく偏見
市場のイドラ… 社会生活におけるコミュニケーションに基づくイドラ
劇場のイドラ… 権威や伝統などを無批判に信じることに基づくイドラ

を指します。

 

ちなみに、イドラを英語で書くと「Idola」、ラテン語では「偶像」という意味で、アイドルの語原にもなっています…。私たちが推しているアイドルも私たちの偏見を偶像化したものなのかもしれない…と考えると、なんだか夢がなくなってしまいます…。

 

さて、ここからが本題なのですが、従来の政治は、劇場のイドラが問題であると考えるのが通説であると言われていました。

これは、何を言っているのかよりも、どこの政党の誰が言っているのかで物事を判断し、内容の判断をすることなく妄信してしまった結果、衆愚政治が行われてしまうという問題でした。

 

しかし、ここ最近、劇場のイドラ以上に洞窟のイドラと市場のイドラが強くなっているように感じます。

まさに、フィルターバブル現象は、市場のイドラを招きます。

 

私も連日のように様々なSNSやマスメディアで選挙に関する情報を目にしてきましたが、「どんな報じ方するか」というバイアス以上に「どんな報道を選択するか」というバイアスの方が大きくなっていると感じるようになりました。

 

そして、「マイノリティが生きやすい社会を」という名目で、社会的弱者を味方につける劇場型の政治手法は、まさに市場のイドラと洞窟のイドラが大きな影響を及ぼしているのではないでしょうか…。

 

結果的に、社会的マイノリティが本当の意味で望んでいないような政策を推し進めてしまうことになるのではないでしょうか。

 

【洞窟のイドラにとらわれた支援者は、市場のイドラに騙される】

劇場型政治がずいぶんと盛り上がっているように感じられましたが、結果は一目瞭然でした。

 

ここで触れておきたいのは、世の中には「声を上げないマジョリティ」が多数存在するという事実です。(頭痛は痛いみたいな構文だな…w)

 

彼らは、世間に向かって表立って特定の候補者をたたいたり、他の有権者をたたいたりすることは決してしません。

 

…いや、現実的には、特定の候補者を過激に応援してしまう「ファン」に多いような気がします。それは政治的な立ち位置や、政治的なパフォーマンスの仕方に関係ないと思います。

 

政治的に応援はするけど、別に声を上げるわけでも全肯定をしているわけでもないいわゆる「緩いファン」が圧倒的であり、過激なファンは、圧倒的にマジョリティであると言えます。

 

彼らは、常に「自分が応援している候補者は正しい」と錯覚しています。それは、「自分自身の経験則的な知見に一致しているから」という洞窟のイドラに囚われてしまっているのです。

 

社会福祉を語るためには、税制度や経済政策は欠かせません。経済政策を語るためには、起業支援や社会全体の物価、労働環境などの議論は欠かせません。労働環境を語るためには、外国人とのかかわり方という意味で、防衛の問題や文化・言語の違いを語らなければいけません。時には、環境やSDGsといった流行りの話題も必要でしょう…。

 

なぜこの話をするのかというと、政治を語る際にどこか一面的な根拠で主張をするのは浅すぎると思うからです。

 

確かに原子力発電はリスクがあります。では、私たちの電力はどうやって補うのですか?火力?再生可能エネルギー?

 

太陽光パネルを設置するために、たくさんの木を切り倒して開発をするのは、本当に環境の為なのでしょうか。本末転倒じゃない…?

 

EVって確かに環境にいいかもしれないけど、その電気ってどこから来たの?バッテリーを作る際にCO2を沢山排出するよね…?

 

でも、太陽光パネルを設置することで儲かる人がいて、そうした人々との利害関係もあるかもしれません…。それは、環境という倫理的な問題以上にビジネスという経済的な課題が絡んできます…。

 

そうしたあまりにも多くの複雑多義的な社会の中で何を“解決策”とするのかを考えるのが政治です。

言い換えれば、絶対に譲れない部分と妥協しなければいけない部分の折り合いをつけるのが政治だと思います。

福祉を充実させるためには、「増税」を回避することはできません。ノーリスクであれもこれも全部やってほしい…なんて発想は極めて愚かです。

 

これは、政治に限らず組織でも同じことが言えるのではないかと思っています。

 

我々は常に正解のない「トロッコ問題」を前にしているのであり、重要な選択をするためには、印象論や感情論、思い込みだけで語るのは、とても危険です。

 

そもそも政治をするという時点で、ある程度「世のため・人のため」に動くことは当たり前であり、メディアが叩いているからと言って必ずしも悪であると決めつけることは絶対にできません。

 

そこには、前後の文脈と、それによって利益を享受するさまざまな立場の人がいるからです。

自分にとってプラスにならない政策だから応援しない(応援する必要がない)というのは、どうぞ個人で勝手にどうぞという感じですが、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な理論で、幅広く物事の関連性に注目をしてみる価値はあるのではないでしょうかね…。

 

一方で、このような私の考え方においても洞窟のイドラは働いていると言えます。

具体的には、人を応援するという心理には、少なからず理屈では説明しきれない「感情的な何か」が存在しているのも事実だからです。

 

(だから政治って語りたくないのよねぇ~。)

 

ただ、自分の無知を自覚することや、自分の考え方にイドラが働いていることを自覚することは悪いことではないと思うのです。

 

皆さんは、だれか候補者を応援する時に、どれだけ他の候補者に目を当てたのか、彼らの主張の内容を詳しく比較したのか(ここでは何を選ぶのかだけでなく、何を捨てているのかに注目する)については、改めて振り返ってほしいなと思います。

【広く・深く政治を語り合うことは、非常に有意義で楽しい】

私は、政治思想をオープンに語ること=恥ずかしいという感覚があるので、「ここの政党や候補者を応援しています」と言ったことはこれからも明言しないと思います。

 

(このブログでも、割と広く特定の事例を言及していないのはそのためです。)

 

ただ、自分が正しいかどうかという先入観から解放され、お互いの経験則に基づいて幅広い価値観を共有し合うこと自体は非常に有意義で楽しい時間なのは、間違いないです。

 

誰が良いか悪いかというくだらない一面的な判断や感情論ではなく、お互いの理念や考え方、選択と同時に選択しないものに対する敬意と共感をじっくりと話し合ったうえで、「どこに妥協点を見出すか」を自由に語り合えたら本当に楽しいなと思います。

 

ということで、今日はここまでにしておきます。

 

また近々適当に更新します。

今日も駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

 

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