【メディアと批判】 健全な批判の難しさと情報の大量生産社会の功罪

Kuramon

みなさん、こんにちは。Kuramonです。

年が明けてから今日でもう5日も経ってしまい、あまりの時間経過の速さに愕然としております。

 

今日は、最近感じているインターネット社会における「批判」の難しさについて、徒然なるままに書いてみようと思います。

いつもの駄文ですが、今日もどうぞお付き合いください。

 

【社会批判の温床と化したSNS 】 AIがもたらしたインターネットの存在意義の変容

インターネットメディアとりわけSNSの浸透は私たちの生活を大きく変えました。

私も1日に5時間くらいはSNS(XやInstagram、Facebookなど)を見ている気がします。

 

それくらい、私たちの日常生活に浸透したSNSを、私は中学1年の時からかれこれ10年以上使い続けています。

そんなインターネットの住民として感じることは、どうも最近のSNSが色を変えてきている…要は、変な感じがするという違和感です。

 

この違和感・モヤモヤ感の正体を正確に言語化しようと試みるのであれば、「インターネットがプロパガンダの手段となるのではなく、インターネットの存在そのものがプロパガンダになっている」というべきではないでしょうか…。

 

この表現で勘のいい方やメディアを学習されている方ならわかると思うのですが、かつてのインターネットと言えば、利用者(情報を取得する者)が自由に情報を発信することができるという側面から、あらゆる社会の多様性を尊重しうるだけの寛容性を持ち合わせていました。

 

つまり、一個人が発信する内容にインターネットのコンテンツが依存していたという状況です。

その証拠に、インターネットが個人の発信するコンテンツに依存していた象徴として、「パクツイ」という概念がありました。

特定のツイート(現在ではポスト)をTwitter(現在はX)に対して、別のユーザーのツイートのパクリを指摘するというある種の文化です。最近は本当に見なくなりましたね。

 

コラ画像まで作られて、パクツイ警察と呼ばれた時期もありました。社会に対する批判においても、世論を形成する媒体というよりかは、寧ろ個人的な意見の集合体…言うなれば、個々人が自由に意見を発信する場という側面が強かったように感じます。

 

しかし、近年のインターネットを見ていて感じるのは、個々人の発信が社会全体の世論を形成するという側面よりも、インターネットが世論そのものになっているのではないかということです。

 

 

この背景には、AIの登場が大きいのではないかと考えています。

AIがインターネットにもたらした影響は、産業革命と同じくらいに匹敵するのではないかと思います。

(というか、内閣府が、第4次産業革命のインパクトの要因の一つに既にAIを据えています。)

 

ここで、私たちが考えないといけないことは、「情報の大量生産・大量消費社会は、私たちに何をもたらすのか」という点です。

AIが既存のコンテンツを学習して、コピーや類似コンテンツを大量生産するようになったことで、私たちとインターネットの関係性はどのように変化したのでしょうか。

 

一つには、インターネットの存在そのものがプロパガンダになったという点でしょう。元々インターネットは、その匿名性の観点から、情報の数が多い方が強いという側面があります。これは、インターネットを活用する多数の個人が同じ情報や世論を発信をすることで、アルゴリズムに対して一定の影響を及ぼした…と考える方法です。元々マスメディアもそうですが、情報はその真偽以上に、どれだけ多く触れるか…という親近感の方が人間に大きな影響を与える場合があります。何度も繰り返し同じメッセージをいう方が印象に残るってやつです。

 

これがAIによって、一部の人間の意見や考えをかなり拡声して伝達できるようになってしまったのです…。いうなれば、インターネットがそのものがプロパガンダになっている(敢えて言えば、マスメディア化している)と言えるのではないでしょうか…。

 

(ただし、マスメディアに比べて、フェイクチェックは、十分にされていません…。逆に言えば、マスメディアはインターネットのようなメディアと同様の1コンテンツとして扱われるようになり、”マス”という特権性を失っている気もします…。そんな話はまた今度。)

 

 

こうした社会で不便だなぁ…と感じるのは、「サイレントマジョリティーの不透明化」です。

そもそもインターネット上にコンテンツを発信する人なんて、世の中のごくごく一部であるという解釈が当たり前でした。

その中でも批判的な発言やアンチ発言を繰り返す人は、全体の数%しかいないというのも共通の認識として受け入れられていました。

 

恐らく、その割合自体はほとんど変わってはいないのでしょうが、今はマイノリティがAIという無限拡声器を手にしたために、この割合が変化しているのではないか…という錯覚に陥ってしまいます。

言うなれば、サイレントマジョリティーが本当にマジョリティかわからなくなる…という現象です。

 

その意味では、インターネットリテラシー自体がより一層高度化するだけでなく、あらゆる側面での教養の必要性が高まっているのではないでしょうか。

よくインターネットが発展すれば、勉強はいらない…なんて言われますが、私はその真逆な気がしてならないのです。

 

【批判の難しさ】 二項対立的な批判の既存性

インターネットにおける情報の大量生産・大量消費社会が到来したことで、批判的な文章を見る機会が増えた気がします。

とりわけ、一般世論としての政治への批判から始まり、愚痴みたいなもの、日常の不満など、その範囲は幅広いです。

 

彼らの意見をたくさん見て、辟易しながら思うことなのですが、意見を述べるときに、正義と悪の二項対立構造での批判の多さが目立つようになった気がします。

つまり、自分たちは善(正義)であり、批判する相手は悪(敵)であるという考え方です。

 

自分たちは絶対的に正しく、既存の社会における問題点や課題点は全て悪という考え方です。

このような考え方は、世界最古の宗教であるゾロアスター教からなんら変わっていません…。

 

しかし、改めて考えてみたいのは、そのような二項対立が生じるような場面においては、しばしば既に十分に検討がなされている…ということです。

特に、答えがない問題についてはその傾向が強いです。

 

 

現在の社会というものは、過去の社会における選択を繰り返してきた結果です。

言い換えれば、私たちの考える俗物的で平凡な批判なんて既に100も検討済みであり、何らかの理由や都合、目的との乖離から却下された選択肢であるという可能性が高いということです。

この視点を持てるかどうか、というのは非常に大事です。

 

なぜなら、この視点は、テーゼとアンチテーゼの対立ではなく、ジンテーゼへと止揚することを前提とした思考であるからです。

私たちは、ある程度予め検討されていることを前提に、なぜその選択ができなかったか、その選択肢を意図的にしてこなかったかという背景的な要因を多角的に分析する必要があります。

そのためには、高度な経験と教養、そして鋭い直感による言語化が不可欠です。

 

その意味で、健全で建設的な批判を行うという行為は、私はきわめて難しい行為であると感じています。

 

【本質への探究】 現代社会を君たちはどう批判するか。

さて、このような社会において、私たちはどのように立ち回るのがベストなのか…。これは極めて難しい課題でもあります。

ROM(read only member 見る専)であることが求められるのか、はたまた自分の意見を発信する方が適切なのか…この判断は極めて難しくなった気がします。

 

というのも、インターネットで発信をすることで、インフルエンサーとして権力を持てるという、情報発信者側が有利の社会構造は変わらないからです…。

 

正直に言えば、この問いに対して現代のメディア論は明確な答えを出すことができていないように感じます。そもそも正解なんて存在しないのです。

私自身もこの問題に答えはないものとして、この命題の真偽は検討してきませんでした。

 

しかし、学習塾で生徒の勉強を見ている中である種のジンテーゼとなる案を見出すようになりました。

それは、「常に自分の論理を言語化できるだけの教養と思考力を身につけることの重要性が増した」ということです。

 

これは、人類みな、ひろゆき化計画に非常に近しいと言っても過言ではありません。(厳密には違うけど…。)

というのも、社会で起こる物事を解釈する際の解像度が極めて低くなっているように感じます。

 

いや、厳密には人類の解釈能力や言語能力は寧ろ発展していると言えます。人類の表現力も進化しています。

しかし、その進化を遥かに上回る速度で社会が進化してしまっているのです。

 

その意味では、人類の多くがゼウス(全能神)のようになることを求められているような気がします。

神を目指すという行為は、ある宗教では禁忌であり、私も「神になれ」とは思いません。

 

寧ろ、ただ謙虚に多くの物事を学び、視野を広げ続けるだけで良いのです。完全に到達することは不可能でも、少しでも学び続け、考え続けることが本当の意味で求められているのではないでしょうか…。それこそが、健全な批判を行うための第一歩であることは変わらないのです。

 

【AIの功罪】 情報の大量生産社会における実体験の価値

AIが発達したことによって、私たちの社会は確かに便利になりました。

一方で、AIがもたらした高度な情報の大量生産社会は、人間の思考という行為に虚無性を与えました。

 

それは、大量生産社会において「欲しいものは何でもあるが、欲しいものが何もない社会」がもたらされたことに近いです。

言うなれば、「意見や考え、答えはいくらでもあるが、自分自身の意見や考え、答えがない社会」とも言えるでしょう。

 

 

私は、そういう社会におけるリーサルウェポンとして、「人間同士のリアルな繋がり」が該当すると考えています。

オンライン化が加速する一方で、リアルが大切・体験が大事!と騒がれているのと同じように、批判をするためには、原体験…すなわち直接触れることの価値が見直されていると思います。

 

これは、私自身が政治家や経営者、多くの日本のリーダーに直接触れて感じるようになったことです。

多くの責任と慎重な判断が求められる中で、ありとあらゆることが検討され、最善手と求めて選択をし続けた結果が今であるということを決して忘れてはいけないのです。

 

そこには、常に生生しい人間同士のリアルが存在します。

私たちは、自分自身の意見や考え、答え…言うなれば確固たる自分軸を持つためにも、こうしたリアルに積極的に触れていくことが必要なのだと思います…。

 

 

さて、今日もだらだらと駄文を書き連ねました。丁度2時間くらい経ったので、この辺で書くのを終わらせようと思います。

 

今日もお付き合いいただき、ありがとうございました。

ではでは!

 

興味のある方はこちらもどうぞ。(他のコンテンツです。)

哲学
「哲学」の記事一覧です。

共著「哲学や心理学を学ぶ前に知っておきたい 考え方の教科書」

https://amzn.asia/d/iN2elsK

コメント

タイトルとURLをコピーしました