”神が死んだ”現代社会において、私たちは何を信じたら良いのか。

Kuramon

どうも。

就活から解放されたくらもんです。

就活については、また今度思っていることを全部書きますね。

 

最近、色々な縁があって、哲学的な自問自答と思考を繰り返す日々が続いています。

というのも、元々何かを考え、自分なりの答えを探していくという作業は大好きなので、ある種こっちの方が性に合っているのかもしれません。(というか、どことない心地よさを感じています。)

 

中学校や高校の時の同級生の仲間たちをこっそりのぞいてみると、彼らも似たような症状になっているので、多分、私たちはそういうことが好きな星の民なのでしょう…。

 

【人はなぜ“所属”するのか】

さて、本題です。

先日私はある人と「宗教」について、1時間くらい色々語る機会がありました。

きっかけは、「組織って何だろう?」という組織運営の在り方を問うところから始まった気がします…。

 

というのも、先日あるグループ(レペゼンとか…)などがバラバラになっているのを見たときに、「人間は一体どんな動機付けで組織に所属するのか」について考えるようになりました。

 

色々考えていく中で、組織に所属する動機は次の3つに大別できるのではないかなと思うようになりました。

➀ 組織のリーダーの人柄に触れ、人柄に惹かれているパターン
➁ 組織の現在やっていること、活動内容に惹かれ、自分もやりたくて参加するパターン
➂ 組織の描いているビジョンに惹かれ、自分もそのゴールに憧れて参加するパターン

 

こうした動機の違いが、組織運営の本質に大きな影響を及ぼすと思っています。(本当は➃ 社会によって所属を強制されるパターン というのがありましたが、あくまでも自由意志で所属を求める場合に限った話をしています。)

 

初期の組織は、➀か➂を重視する場合が多いように思います。リーダーとなるファーストペンギンが自分の意志を仲間に伝え、共感を得て事業を大きくしていく…。

そんな流れを沢山見てきました。

 

ところが、組織が大きくなると少しずつ➁へとシフトをしていきます。なぜなら、規模が大きくなると組織の代表が組織全体に影響力を及ぼすということが困難になるからです。

 

そこで大切なのは、“理念や価値観”の共有です。言い換えれば、組織に所属する全員が同じ方向を向いていることの大切さです。理念や考え方が共有されていないと組織はバラバラになってしまいます。いわゆる“マニュアル”も使い方次第では、すごく重要な役割を担っています。

 

とはいえ、現実的に同じ方向を向き続けるというのは本当に難しいことですし、寧ろ今の時代は難しくなっているのではないかと思っています。

特に最近では、“多様性”が重視されており、全ての仲間が“違って”当然になりました。

 

考え方も価値観も違う仲間が同じビジョンを描いて、一緒に行動するというのは不可能に近いと言えるでしょう。

 

最近、DAO(Decentralized Autonomous Organization)という言葉を耳にする機会が増えました。

私もDAOをベースにした組織運営や経営を経験してきましたが、これ、本当にうまくいかないです。マジで。

 

多くの場合、“違い”が“ズレ”となって“離散”へと繋がります。

特に、➁や➂が理由で所属をしている場合、結構な確率で“ズレ”を感じると思います。

 

私は➀を所属の価値判断としているのですが、これが正解とも限りません。人間のステージ(格)が変わると、付き合う人間や価値観も大きく変わるので、少し前まで憧れだった人がいつの間にか、そうでもない…なんてことも多いのです。

 

少し話は逸れましたが、人がなぜ所属をするのか、なぜ組織から離れるのかについて、今私が考えている心理的動機付けについて語ってみました。

 

【人はなぜ、応援をするのか、応援をやめるのか】

では、今度は組織を“応援する“ということを想定してみましょう。

好きなスポーツチームや好きなアイドル、好きなコンテンツなど…。なんでもいいと思います。

 

さて、あなたがそれを応援する理由ってなんでしょうか…。

もちろん、色々な考えや価値観があると思いますが、私は上記の3つの理由に大別されるのではないでしょうか。

 

同じように、応援をやめる理由は何でしょうか。

「➀~➂の内容に“ズレ”を感じたから」というパターンが多そうです。

余談ですが、➁や➂を動機に応援をしている人たちは、比較的ファンとしては冷めやすいのかなと思っています。➀の人ほど熱心なファンが多く、不祥事があっても「次は頑張れ!」という人も多い印象です。

 

 

ここで考えておきたいことは、どれが良いとか悪いとかではなく、「メンバーが組織に居続ける理由」と「組織を応援する人が応援している理由」にズレがある場合があるという事です。

 

そして、「この人(組織・ビジョン)は、こうあるべき!」という理想は、組織に対する“期待”であり、組織のイデアを自分で勝手に作りだしてしまっているという事です。

 

このイデア、時としてリスクにもなるって話を少ししようと思います。

 

【神は死んだのではなく、神を殺しているのではないか。】

ニーチェは、「神は死んだ」とかつて唱えました。ここでの神はキリスト教の神ではなく、真・善・美という従来の最高価値が力を失うことで、ニヒリズムの状態に陥ったと言えます。そうした永遠回帰する社会の中で、運命愛を実践し、超人になることを期待して生きるべきだと唱えました。

 

分かりやすく説明しましょう。従来の社会では、“こうあるべきだ”というような理想(イデア)が存在していました。(それを主に宗教が担っていました。)

 

しかし、近代に入ることで私たちは世界を理性的に捉えるようになり、従来の理想的価値観が崩壊してしまったのです。そうした社会では、自分自身で新しい価値観や生き方を受け入れるために、今ある現実をありのままで受け入れるべきだと唱えたのです。

 

では、本題です。私たちは「こうあるべき」を理想とする普遍的な正解から解放され、自分なりの自由と答えを求めるようになりました。

 

その結果として、各自が自分なりの理想や自分なりのあるべき姿を常に意識するようになりました。言うなれば、「神の創造」です。(唯一神を基本とする宗教の信者に〇されそうな考えではありますが…。)

 

ここで、考えておきたいのが、私たちが組織に所属する、もしくは組織を応援する時に無意識にイデアを創造しているという点です…。

 

各々が「組織はこうあるべき」という組織のイデアを抱くことは、組織が本来1つに共有するべきだったイデアの存在を否定することになります。

これは、まさに「神は殺された」のではないでしょうか。

 

さて、ここから私が考えていきたいのは、神が殺された社会において、組織が矛盾するこの状況を克服することができるのだろうか。という点です。

 

あくまでも私の考えですが、自己に存在する「イデア」の絶対性を否定することができれば、それは可能になるのではないでしょうか。(すごく矛盾しているけど…。)

 

「こうあるべきだ」という理想像の否定…。中々できることではありませんが、これがすごく大切だと思っています。

 

2つのイデアが対立して存在する時、そこに存在するテーゼとアンチテーゼはアウフヘーベン(止揚)して、ジンテーゼを見出すべき…ヘーゲルの弁証法の考え方です。

 

要は、2つの対立する価値観が存在したとき、両者の特徴を踏まえて第3の価値観を創造していこう…!という考え方です。

 

これを組織に対してやっていくのはどうでしょうか。

 

組織に所属するということは、同時にイデアを抱くことです。

ですが、そのイデアは他のイデアの影響を受けて多様に変化しうる存在であってほしいと私は思うのです。

 

組織に対して理想を押し付けずに、緩く所属する…でも、自分の中のイデアをアップデートしてより高次なものを目指していける…そんな存在になれればいいなと思うのです。正しいか正しくないか、ではないのです。

 

そして、似たような価値観を持っている仲間が集まった時、きっと新しくて、楽しい、ワクワクするアイデアが無限に出てくる組織になると思うのです。

 

そういう人たちと最近、色々な価値観を交換することで、自分の中での哲学的な思考欲や知識欲が一気に刺激されています。

 

そこで考えたことについては、またブログにします。

駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

では。

 

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コメント

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