どうも。くらもんです。
今は福岡に向かっている飛行機の中で、音楽を聴く以外やることがないので、ブログでも書こうと思い、最近考えている「メンタルケア」について思っていることを書いてみようと思います。
相変わらずの駄文ですが興味のある人は適当にどうぞ。
(好き放題書きますが、通りすがりの大学生のフライト中の暇つぶしなので、学術的根拠とか一切知らないので、悪しからず。)
【なぜ私たちは病むのか】
私も定期的にメンタルがキツくなることがあるのですが、最近ある共通点に気付いたのです。
それは、
・環境の変化がない時(刺激が存在しない)
・なんらかの”比較対象“が存在している時
・時間やお金や仕事、生活などになんらかの“不足“が感じている時
です。
万人に当てはまるかは知りませんが、この4つの条件が揃った時に、漠然と”病む”という状況が発生するのだと思います。
【人間は思考をすると病む】
脳のリソースに思考をできる程の余裕が存在する時、総じて私たちは病みます。何故か。
これはシンプルに「自問自答」を行うからです。
・なぜ私たちは生きているのか
・自分が社会でどんな価値があるのか
こうした哲学的な問答を自己の中で行うこと自体は悪いことではありません。
何千年も前から偉い人たちがいっぱい考えてきていたのですから。
そして、当然ながら再現性のある答えなんて出ないのです。
いや、逆に言えば、“答えがないからこそ迷うのでしょう…”
例えば、「君が生きる価値は〇〇である」と明確に受け入れることができている人は多分病みません。
大事なことは哲学的問答には答えがないからこそ、「自分の無力感を受け入れる」ことが大切なのです。
これはニーチェで言うところの“運命愛”の考え方ですね。
ありのままの運命を受け入れることってまあ難しいのですが、「どうせ生きても死んでも変わらない」なら、“適当に好きなことして生きれば良い”という境地に辿り着ければ少しは気が楽になるものです。
(これ、“生きても死んでも同じなら死んだって良い”という真逆の結論に至るのですが、これもまた事実であり、無理に否定する必要もないかと思っています。)
いずれにせよ、答えのない問題に無理やり答えを出そうとしたり、意味のないものに無理やり意味を見出そうとすると必ず心が破綻します。
答え探しも意味づけも、見出すものではなく後付けに過ぎないのです。
少し話はそれましたが、こういう問答って考える余裕がある限り苦しみ続けます。
逆に言えば、考える余裕がないくらい充実をしていると本当に病みません。
私は精神的にしんどい時、予定を無限に入れることで、考えることを許さないくらい物理的に自分を追い込むようにしています。
やりすぎは禁物ですが、程々にやる分には本当に効果的で、個人的にはお勧めしています。
【刺激を環境からコントロールしていく】
病んでいる人を見ていて思うのは、「”刺激”のバランスが崩れてしまっている」ということです。
中学3年生の頃、卒業論文で“ストレス”をテーマに色々と研究したことがあるのですが、“ストレッサー”の自己コントロールが、精神の安定においては最も重要です。
言い換えれば、外からの刺激が強過ぎても弱過ぎてもダメなのです。
病む人の観察をしていて感じる特徴として、
・環境が大きく変わり過ぎて、適応できていない
この2パターンだと思います。
例えば、どんなに病みがちな人でも、大好きな人のライブに行ったり、友達と遊んでいる時に“やべぇ!死にたいなう!”とはならないのです。
上述の“思考の余裕”は、脳が“退屈”している時に生まれます。
逆に言えば、脳が退屈しないように、新しい刺激を入れ続ければ人生はそれなりに充実していると感じられるようになるのではないでしょうか。(知らんけど。)
私はなるべく人生を“ゲーム”として捉えることで、“いかに遊び心を持ち続けるか”しか考えていません。
友達と水しか飲めない縛りしてみたり、LINEを全部英語にしてみたり…
日常に意味もないくだらない“ゲーム性”を加えることは、人生の味付けにおいて意外と重要なのではないかと思うのです。
【環境のコントロールはできない!】
病む時によくあるパターンが、「環境が良くない!どうにかしなきゃ!」ってパターンです。
これ、どうにもならないです。あきらめましょう。
考え方の教科書でも書きましたが、他人をコントロールすることってできないです。それは彼女や仲のいい友達でもそうです。
そもそも他者を変えようとするという行為は、自分にとっての”正しさ“の尺度を相手に押し付けるような行為です。
例えば、よく聴く言葉に「どうして私のことを分かってくれないの?」がありますが、これを質問する時点で、相手に対して「自分を理解する」ことを求めているので、傲慢な行為と言えるのです。
つまり、自分は変えることはできても相手を変えることはできないということをいかに受け入れられるかが大事なのです。
1番良いのは環境ごと変えちゃうパターンです。付き合う人を変えるとか、過ごす場所を変えるとか。
仕事を思い切って辞めても良いかもしれません。
私も自分の会社をバックれることで、人生が一気に好転しました。
”どうせ俺が居なくても社会が成り立つ“なら、”失うもの”は多分大して大きくないのでしょう。
自分の頭で考えて、自分の責任で、自分の生きたい生き方を選択する。
これこそが、母校が唱えていた“自由”なのかもしれません。
そして、今いる環境という鳥籠に最も拘束するファクターは多分“知識不足”です。
いろんな人と関わり、経験して、ネットで学び、知識を増やして行く…それがいざという時に自分が環境を変えられる鍵になるのかもしれないですね。
興味を持ったり、期待をしたりすることは良いことではありますが、こうあるべきという”自分の中での正解“は相手に押し付けてはならないのです。
【比較はしても、違いという現実を否定してはならない】
案外これ、難しいです。
私もよく比較をします。
そりゃ、自己顕示欲全開のイキがりSNSとそれでも満ち足りない自己顕示欲の発露でこんなブログを書いてるわけですから当然です。
ただ、違いを認識し「羨ましい」と思いつつも、「なんで自分は〇〇みたいに恵まれていないのか」といった違いを否定する行為はしないようにしています。
私は大学生になった頃、今の大学に劣等感を感じていました。所謂、学歴コンプってやつです。
母校の同級生はみんな優秀で早稲田とか慶應とか東大とか行ってるのに…まあそんな状況に放り込まれたら、コンプの一つや二つ、発動して当たり前でしょう。
ですが、大事なことは、どんなに劣等感を感じていたとしても、「過去と現実は変わらない」ということを受け入れることです。
そして、「未来でどうしていくか」を考えていくことです。
私はこの4年間の学生生活の行動原理は全てここにありました。
水戸でしかできないことをやろう。東京では絶対にできない経験をしよう。
それのみを考えていました。
結果的に、変な拗らせ方をすることなく今は胸を張って「ここに居て良かった」と思えるのです。
私は色々と運が良かったですが、この思考は多分運を引き寄せるのではないかなとか思うのです。
比較をして、劣等感を抱き、現実を否定しようとすると病みます。だったら現実や環境を変えるために合理的な選択を選ぶことが大切なのでしょう。
考えるより動いた方が、多分良い。
【不足は悩みとなって、行動や思考を惑わせる】
私が人生で気持ちが沈んだ瞬間には、必ず”不足“で悩まされていました。
・受験において、大学生という肩書きがなくて•••
・会社において、時間とお金と知識がなくて•••
・就活で“内定”がなくて•••
・クレジットカードを払えるだけのお金なくて•••
いずれも自分の人生においては癌でした。
面白いことに、ストレッサーが解決すれば案外どうでも良くなります。
本当に常にこのことばかりを考えていて、思うように実が入らなかったです。
ただ、こんな雑魚みたいなシンプルな悩みって、ストレッサーが消えてしまえば解決するのです。(中学の頃の卒業論文を人生という体験で実証しています。)
今何が”不足“しているのかを考えて、自分がどう変わればそれが手に入るのかさえ考えて動いてみれば人生は思いの外変わってくるのかもしれません。
おわりに
さて、飛行機がそろそろ高度を落とし始めました。しかもスマホの充電も1%になりました。
もっと興味がある人は、私が共著で書いた「考え方の教科書(幻冬舎)」を読んでみてください。
案外止まないために必要なものは、自分の環境を変えるためのほんのちょこっとの”勇気”と“行動力”なのかもしれません。
私の1時間半の暇つぶしの駄文にお付き合いいただきありがとうございました。
では良い旅を。
興味のある方はこちらもどうぞ。(他のコンテンツです。)
共著「哲学や心理学を学ぶ前に知っておきたい 考え方の教科書」
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