【科学は本当に正しいのか?】科学という「宗教」を信じるということ

Kuramon

どうも。

徹夜した翌日に6時半起床というスケジュールに絶望感を感じているくらもんです。

 

先日、とある方と「科学って本当に正しいの?」というテーマについて少し語る機会があり、科学=宗教という感覚が思ったよりも普遍的ではないことを実感したので、適当に語ってみようと思います。

 

興味のある方のみお付き合いください。

 

【科学ってなんだろう…?】

そもそも、皆さんにとって科学とは何ですか?

 

科学と言えば、「信用できる!」とか、「私たちの生活を便利にする!」とかをイメージする人は多いと思いますし、「私は科学を信じない!」とか言った日には、「何を言っているのだ?こいつは…」となると思います。

 

ですが、敢えて私は「科学って本当に正しいの?」って話をだらだらと語ってみようと思うのです。

 

科学について、文部科学省のHPでは、次のように定めています。

世界と現象の一部を対象領域とする、経験的に論証できる系統的な合理的認識。

 

こうやって考えてみると、科学って「帰納法」なんだな‥と改めて思います。

 

帰納法とは、簡単に言えば、「世の中はいつもそうなっているし、反証になる事例なんか見つからないよね…。」という状況から、定理を定めていく方法です。

 

科学が権威性をもつ理由は、「反証可能性がないから」と、「目に見えるものを一番適切に説明できているから」なのではないかなと思うのです。

 

【百聞は一見に如かず…101個目は違うかもしれない。】

私は、いつも科学の勉強をする時に、この感覚に陥ってしまいます。

水は、100度で必ず沸騰しているけど、明日は100度で沸騰しないかもしれない…。

太陽は東から昇って西に沈むけど、明日は逆になるかもしれない…。

 

そんなことを永遠と考えてしまうのです…。

だって、月に大きな隕石がぶつかってしまったら、月の動きが大きく変わってしまうかもしれないじゃないですか…。

 

確かに、科学は限りなく100%に近い確率で、事象を正確に説明してくれています。しかし、100%であるかどうかは悪魔の証明ですし、私は不可能だと思っています。

 

【目に見えない=信じるしかない=科学という名の宗教の完成】

科学の何が厄介かって、科学の定義や定説って「目に見えない」ってことだと思うです。

 

水を見たときに、「お~水素と酸素がくっついている~」って想像する人はいないし、モノが落下する時に、「重力加速度gが見える~」ってなる人は多分いません。

 

これって、「毎回そうなっているらしいけど、日常生活では実感がしにくいから、“そうであるらしい…”」と信じているわけじゃないですか?

 

つまり、もしかしたら「酸素」と限りなく同じ性質をもっている「酸素」らしき何かが見つかるかもしれないです。空気中の酸素は20%だなんて教えられるけど、10%が本当の酸素で、残りの10%が限りなく酸素に近い性質をもっている「何か」かもしれないじゃないですか…!

 

現在の私たちは、「酸素」と「酸素らしき何か」を区別する手段を知らない(経験したことがない)から、「酸素」とまとめて括っているだけかもしれないわけです。

 

たまに、塾で生徒を教えているときに、「本当に水はHとOがくっついているの…?実は違うものがくっついているかもしれないじゃん!」とか言われると、「お~、君はその年で科学の本質に気付いたのか!」とテンションが上がってしまうわけです。

 

つまり、科学ってそういう意味で、世の中の事象を限りなく適切に説明をしてくれるだけで、科学には絶対性がないどころか、限りなく信じているという意味で「宗教」なのではないでしょうか…。

 

【かつてはの宗教は、科学だった】

さて、前近代社会において、「宗教的な教え」は限りなく科学であったと言えます。

なぜなら、宗教的な教えも人間社会を観察することで、分かった「帰納法」から成立しているからです。

 

例えば、病気が治ったのは「神様のおかげだ!」というと、科学からはかけ離れている感がありますが、もしこの世の中に神様という存在があるのであれば、神様という超越した存在が治したのか、病気の原因が解決したのかを目で見て判断して、説明することってできないと思うのです。

 

だって、「薬が何であるのか」なんて物質的に説明はできても、実態を正確に解釈・捉えることなんてできないじゃないですか。

 

そういう意味で言えば、諺とかも「ある種の科学」と言えるかもしれません。(科学好きには怒られそう…)

 

天動説と地動説は有名な科学と宗教の対立ですが、これは「地動説の方が正確に世の中の多くの事象を説明しているかもしれない…。」という観点での勝負なんじゃないでしょうか…。

 

1+1は、いつも2であると信じているけど、ある瞬間に2ではなくなるかもしれない…。そんなことを考えていくのは、本当に面白いと思いますし、多分こういう話をしていると永遠に語れる哲学の領域なんじゃないかなと思います。

 

【科学という名の宗教を信仰するのは、実益だから。】

ちなみに、言っておきますが、私は科学の信頼性を否定するつもりは一ミリもないどころか、科学信者な側面が強いです。

 

なので…101個目が違うかもしれないとはいえども、100個目までは必ず同じになるのが科学です。

多くの人が科学を信じるのは、100回目まではそうなったという事に対する期待値の高さです。

 

言い換えれば、101個目は違うかもしれないと思うよりも、100個目もそうなるよねという前提で社会を構築する方が、遥かに現実的で利益があるということです。

 

そういう意味で、社会と科学は密接な共生関係があるのかもしれないです。

 

ということは…言い換えれば、もしも科学よりも社会にとって「実益に繋がる考え方」が登場したときに、宗教から科学に浮気をしたのと同様に、科学も浮気をされる可能性は大いにあるのではないでしょうか…。

 

性格診断とか、インターネットビジネスとか誰がどう考えても非合理的で頭の悪そうなことを多くの人が信じているのもそんな風に考えてみると納得です…。

100%ではないものの、「正しく感じさせる」要素が科学を信じるよりも実益があるからこそ、信じてしまうのかな…と。

 

【宗教が信じる対象であるのであれば、科学は「疑う宗教」】

宗教は多くの人が「これが正しい」かもしれない…と信じています。しかし、科学は宗教とは明確に違うところがあると思っています。

 

それは、宗教が「信じるもの」であるとするならば、科学は「疑うもの」であるということです。

ここまでこんな意味の分からないブログを読めている聡明な皆様ならお気づきかもしれないですが、科学の反証可能性に対抗するために私はずっと疑っています。

 

既存の常識や“正しいとされているもの”に対して、徹底的に疑うことは、科学的な発見をするための第一歩であり、宗教ではできないことです。

 

何が言いたいかというと、なんでもかんでも「正しい」と妄信的に考える考え方は非常に危険で、常に「違うかもしれない…」という懐疑的精神を持つことが大切なのかもしれないのです…。

 

【哲学という名の究極の科学… 】

さて、哲学というのも、人間の在り方や存在価値について、「多くの人間に共通して言えることは何だろう…?」という真理の探究だと思います。

 

これもある種では科学的だと言えます。例えば、デカルトが「コギト・エルゴ・スム」を唱えました。

コギト・エルゴ・スムとは、すべての仮構的権威を排除した時に、絶対に疑いようのない確実な真理として、「私って何だろうって考えている時は、少なくとも考えている私が存在する」という考えです。

 

これもおそらく100回検証したら、100回正しいかもしれない…という点で、科学的なのかもしれません…。

 

まとめ…私たちは、常に「宗教」を信じている

私たちは、このような観点で言えば、常に「宗教」を信じていると言えます。

それは、信じているという感覚がなくても、無意識に信じているというのが適切に表現できているのかもしれません…。

 

いずれにせよ、科学は絶対的ではないですし、宗教や哲学は、必ずしも胡散臭い否定的なものでもないのかなと思うのです。

 

懐疑的な精神をもって科学を疑うことは、新しい発見や価値観に出会えるのかもしれないなぁ…と感じます。

 

ぜひ、こんな話を色々な人と延々と話すことができれば楽しいですね…。

本日も駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

 

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