どうも。
こんにちは。くらもんです。
先日、とある方に”今の自分が考えていること”というテーマで文章を寄せたのですが、それが中々の超大作になってしまったので、皆様に共有してみようと思います。(一部改変)
原文のままなので、見出し等もつけていません。少し読みにくいかもしれませんが、興味があればどうぞ。
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普段、私は塾の非常勤講師として生徒に勉強を教えているのですが、その際「勉強の意味」についてふと考えたことがありましたので、駄文ではありますが書いてみようと思います。
私が何人もの生徒を教える中で”成績が伸びやすい生徒”にはある共通点があることに気付きました。それは、成績が伸びる生徒は総じて”国語力がある”ということです。
現代文の授業を始めて担当する生徒に対し、私は必ず話していることがあります。それは、「国語とは、与えられた日本語の文章を適切に理解し、設問に対して簡潔に解答をできる論理的な思考力を求めている。」と。これは、林修先生の授業の一部受け売りなのですが、現代文という科目を通じていわば”コミュニケーション能力”を図っているのです。
だって、日本語の文章を読んで日本語の問題に応えることなんて、誰でもできそうなことじゃないですか。国語が意味のない科目なら、わざわざ受験生に1/5もの配点を課す必要性がありません。
さて、「そもそも”コミュニケーション能力”とは一体何なのでしょうか。その答えを考える際に、「言葉とは何か?」という哲学的問題とまずは向き合う必要があります。
例えば、「机の上にリンゴがあります。」といわれた時、皆さんはどんなリンゴを想像するでしょうか。赤いリンゴ?青いリンゴ?切ったリンゴ?人によって脳内でイメージするリンゴのイメージは様々だと思います。
では、アマゾンの奥地の人に同じ言葉を伝えたら?彼らはリンゴという言葉の意味を知りません。川に住んでいる動物でも想像するのではないでしょうか。
ウィトゲンシュタインの論理的哲学論考に非常に近しい考え方ですが、「言葉とは、言葉の意味のイメージを共有している者同士の信頼の上でしか成り立たない」これは、千葉高の現代文で習った内容です。
言葉とは、言葉の意味を知っている共同体同士の間でしかイメージを共有できるツールにはならないのです。このことは、実は意外と母国語の日本語でも同じことが言えるのではないでしょうか。(最近の若者言葉やネットミームにはついていけないです…。)
先述のリンゴ問題、文脈やその人の考え方・価値観が違えば、同じリンゴという言葉でも全く別のイメージが想起されます。
ここにコミュニケーションの本質があると私は思ったのです。
日本語が通じないとは、言い換えれば「コミュニケーションの相手(もしくは自分)に、言語に対する適切な理解力と、語彙力、そこから世界を想起するイメージ力が足りていない」となります。
現代文ができる生徒は、他教科の話をしても日本語が通じます。言い換えれば、私たちが伝えようと体系づけた知識のネットワークをそのまんま享受することができるのです。逆に、国語ができない生徒は…。
今年の元旦に石川県で大きな地震がありました。ところが、石川県という都道府県がどこにあるのか(何なら日本の地名であること)さえ分からない生徒が実は大勢いました。
彼らにとって今回の地震は「日本(地球)のどこかで大きな地震があったらしい」程度の解像度でしか、解釈できていないのです。逆に言えば、私たちは石川県に関する様々な知識(例えば北陸新幹線とか、県庁所在地は金沢市とか)と結びつけながら解釈をしますが、そのような知識は環境によって後天的・経験的に学んできたことなのです。
随分と脱線してしまいましたが、「勉強の意味」とは、この経験的な知識を増やし、社会で起こる事象に対する解像度を上げることなのではないでしょうか。これは、世間一般では”教養”という言葉で括られるかもしれません。
”教養”が高い集団であれば、お互いの価値観を理解し合い、共存し合える居心地の良い空間ができるかもしれない…そんな考えをいつしか持つようになりました。
私事ではありますが、私は大学生として活動する一方で、多様性社会に関する書籍を出版したり、教育に関する活動をかなり積極的に行ったりしています。(Twitterを見てもらえれば…。)
LGBTQのようなカテゴリの多様性ではなく、個を個として認める真の多様性社会のために必要なのは、ありのままの相手を認め、共存する事です。そのためには、「どちらが正しいか」という考えではなく、ヘーゲルが唱えたアウフヘーベン(止揚)することによる合意形成が最も重要なのです。
合意形成をする上では、相手の言葉を理解するための教養が不可欠であり、私はいかにこの”教養”を高めることができるかが日本社会、ひいては人間教育で最も重要であると確信しています。
長々と自分の考えを語ってしまいましたが、教養溢れる変人が集まった時、きっと面白い・ワクワクする何かが生まれるのではないでしょうか?
ここまで、長文の駄文をお読みいただきありがとうございました。
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共著「哲学や心理学を学ぶ前に知っておきたい 考え方の教科書」
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